Travel to Arizona 08.

『ゴルフショップオカムラのピンUSA本社取材旅行記 その8』

【ドルフィン工場を後にしてついにピンの本社へ!】
大迫力の鋳造工程を見せてくれたドルフィン工場を後にして、
次に向かうのは同じフェニックス市内にあるピンの本社です。

距離は高速経由で20分ほどとのこと。ワクワクしますね。

道が一般道に変わり「この辺なのかな?」と管理人が思い始めた頃、
案内役のビルが「この先だぞ」とジェスチャーしました。

確か本社のそばには創業者カーステンさんの名前が付いた道、
その名も「Karsten Way」があるはず。見えたら看板の写真撮りたいなぁ…

あ〜、あったあった!って感じで指さしているのが「Karsten Way」の看板です。
完璧を期して動画で撮影したんですが、
あっという間に過ぎてしまったのでご覧の通りの低画質。スミマセン(^_^;)

この道、元々は普通の一般道だったんですが、
ピンが大きくなるにしたがって周囲の土地をどんどん購入していったため、
この道を挟んだ2区画全てがピンの土地になってしまったそうです。

そんな経緯から最終的にこの道はピン社所有の道路となり、
創業者カーステンの名前をとって「Karsten Way」と名付けられました。
現在はこの名前でも地図に載っているんだとか。

道のイメージが湧きやすいようにGoogleマップのスクリーンショットを撮ってみました。
この道沿いの左右2ブロック全てがピンの敷地になっています。
このまま、画像に見える白い車についていくような感じで進んでいくと…

ピン本社の入口に(ようやく)到着です!!※1
ちなみに我々が最初に訪れたこの建物は「BLDG 101」という名前でした。

雑誌の特集だとよくこの建物がメインエントランスのような形で載っていますが
実はこの建物、本社ビルというわけではありません。

今回のツアーでは2日間ともこの建物を拠点に見学していきましたので、
ビジターを案内するためのホームポイント的な使い方をしているのかもしれませんね。




【ボードで振り返るピンの歴史】
というわけで、早速「BLDG 101」に入っていきましょう。
エントランスで我々を出迎えてくれたのは、ファンにはお馴染みの「Mr.PING」。

木製のタイプは初めて見ました。
くっついているのは昔ピンが作っていた「Karsten」というボールですね。

玄関を背にし、向かって右側にはカーステンさんの大きな油絵とデスクが。
ペンがありますね。単独で取材に来た人はここでサインしてから入るんでしょうか。

ピンの取扱店がある国(地域)に旗を立てた世界地図も発見。
グアムやハワイなど、日本人の多いリゾート地にも旗が立っていましたよ。

他にもカーステンさんがレーガン大統領に表彰された際の記念パネルに…

今ではあまりにも有名になってしまった、
ババさんの2012年マスターズ、プレーオフ2打目を紹介するパネルもありました。

そんなパネルや展示物にいちいち「ほほー」と言いつつ、
2階のミーティングルームに到着。本社研修中はここが我々の拠点となるようです。

この部屋にはピンの歴史を紹介する大きなボードが展示されていました。
非常に興味深い内容が多いので、じっくり紹介していきますね。
少々長くなりますがお付き合いください。




【伝説の始まり −1950年代〜60年代−】
まず紹介するのはピン創業の1959年〜69年までを紹介するボードです。
この時期は今や知らぬ者のいない名作パター『アンサー』をはじめとして、
伝説的なモデルが数多く産み出された時代です。

メインの写真はカーステンさんが初めて作ったパター『1-A』。
トゥとヒールに重量を分散しスイートスポット(芯)を大きくするという、
革命的な考え方をゴルフに持ち込んだ記念すべきパターです。

その右側でカーステンさんが手に持っているのが『アンサー』ですね。
この写真は雑誌やパンフレットなど色々なところで使われているので、
見たことがあるという方も多いのではないでしょうか。

ちなみにカーステンさんがゴルフを始めたのは40歳過ぎ。少し遅めのスタートでした。
しかし元来の熱中しやすい性格も相まってどんどんと上達していきます。
ただ、その当時からパターだけは大の苦手。悩みの種でした。

そこで普通の人なら「練習しよう」と考えると思うのですが、
カーステンさんは「簡単に入るパターを作ろう」と考えてしまうんですね。
GEことゼネラル・エレクトリックの技術者という自らの能力を活かし、
「易しいパター」の開発に(仕事が終わった後、自宅のガレージで)とりかかります。

そして紆余曲折の末、完成した第一号パターが『1-A』。
従来のパターと大きく異なる形状を「醜い」という方もいたそうなのですが、
芯を外しても転がってくれる易しさが評判を呼び、徐々にファンが増えていきました。

その後一家はカリフォルニア州レッドウッドシティから
アリゾナ州のフェニックスへと引っ越します。
引越し先のガレージでもカーステンさんは精力的にパターを作り続けました。

また、この頃には『1-A』のようにヒールとトゥに重量配分したアイアンも作っています。
ただ当時は金属塊からクラブを成型する「軟鉄鍛造」しか製法の選択肢が無く、
1967年までに3種類のアイアン※2を作るものの、納得いく出来にはなりませんでした。

それはさておき、カーステンさんのパターは徐々にプロの間でも話題になっていきます。
1962年にはPGAツアー「ケイジュンクラシック」でジョン・バーナムが優勝。
彼の使用していた『69※3』は記念すべきピンパター初のツアー優勝モデルとなりました。

さて、面白いのはここで唐突に登場する「Japan」の文字。
「こんな昔からピンと日本に関わりがあったの?」
と驚かれる方も多いのではないでしょうか。

実はこの年(1965年というのは誤りで、正しくは1966年)に行われた
国別対抗のゴルフイベント「カナダカップ」の開催地が日本の東京なんです。
思わず「カナダのローカル大会?」と錯覚してしまうような大会名ですが(^_^;)、
実際には今で言う「ワールドカップ」のような規模の大きな大会でした。

その証拠は参加していた選手の顔ぶれを見ればすぐにわかります。
「帝王」ジャック・ニクラウスに「キング・オブ・ゴルフ」ことアーノルド・パーマー。
そして「南アの黒豹」ゲーリー・プレイヤーなど、絶大な人気を誇るトッププロばかり。

そんなスタープレイヤー達がこぞって使っていたパターは何だったのか?
そう、それこそカーステンさんがガレージで作ったピンのパターだったのです※4

この大会でピンパターは国籍問わず大活躍。
ニクラウス&パーマーの米国チーム優勝の様子がテレビで生放送されると、
「あのパターは一体どこのメーカーだ?」と世界中で大きな注目を集めました。

結果、カーステンさんのもとには世界中から発注が舞い込みてんてこ舞い。
大会終了後、ピンの知名度は大幅に高まりました。

しかし、ここでUSGA(全米ゴルフ協会)から待ったがかかります。
ジャック・ニクラウスが使用していた『クッシン』をはじめ、
ピンのパターはルール違反である、との指摘を受けてしまうのです。

その指摘は
「グリップの先端がヘッドのセンター(ボールのある位置)を挿している※5
というものでした。

幸い、この年に発売されていた『アンサー』は違反のそしりを免れました※6が、
ベンドシャフトを採用していたその他のモデルは軒並み違反とされてしまったのです。
カーステンさんはその指摘を受け入れましたが、大きな打撃でした。

この騒動で盛り上がり始めていたブームには水をさされましたが、
カーステンさんは困難に屈することなく、
1967年にアリゾナ州フェニックスで現在の母体となる会社を立ち上げます。
(「Karsten Manufacturing Corporation」という会社です)

ピンのパターはトゥとヒールに重量を分散したことによる芯の広さが魅力。
無理にシャフトを曲げずとも、その性能に惚れこむゴルファーは大勢いました。

仕事に励むカーステンさんに、1969年ようやく良い知らせが届きます。
初めて4大メジャーでピンのパターが優勝した※7のです。
この勝利でピンの人気は不動のものとなりました。

まだまだピンの快進撃は続きます。
この年にカーステンさんは世界初となるステンレス鋳造のキャビティアイアン
『K1(Karsten 1)』を開発し、発表します。

型に金属を流し込んで作る「鋳造」は「軟鉄鍛造」より設計の自由度が高く、
これまで作ることの出来なかった大胆な形状を実現することができました※8

当時主流だったマッスルバックタイプのアイアンより遥かに易しく、
かつ大量生産できてヘッドの精度が高い『Karsten 1』は大ヒット。
以降10年以上に渡って販売され続けるベストセラーモデルとなるのです。




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